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第7官界彷徨

第7官界彷徨

五味文彦先生の平家物語その4(巻5)

2012年9月9日

「都遷=みやこうつり」
 遷都の噂はあったものの、まさか今日明日とは思っていなかったので、京中の上から下までの人々が大騒ぎです。
 6月2日の早朝、行幸の輿に3歳の安徳帝、母の建礼門院、後白河法皇、高倉上皇、摂政をはじめとする人々が、いそいでお供をして、3日には福原へ到着なさいます。

 清盛の弟の頼盛の別荘が、御在所になりました。
 邸の主は位を上げられるので、頼盛は正二位になり、これは摂関家の子でもないのに前例のない加階なのでした。
 清盛は、高倉上皇の父の後白河上皇を狭い板葺の建物に押し込めます。

 遷都はこれが最初ではないけれど、桓武天皇が京へ遷都したこと、平城帝が薬子の勧めで奈良に再びの遷都をしようとした時に、反対を受けてできなかった、、、天子さえできなかった遷都を、人臣の身の清盛が行ってしまったあさましさ。

 遷都のために、旧都となった都の荒れ行く様子を、方丈記の引用をしつつ
♪べべん、べん、
 旧都は、あはれめでたかりつる都ぞかし。王城守護の鎮守は、四方に光を和らげ、霊験殊勝の寺々は、上下に甍を並べたり。
 百姓万民煩ひなく、五畿七道も便あり。
 されども今は、、、、、軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。
 花の都、田舎になるこそ悲しけれ。何者の仕業にやありけん、古き都の内裏の柱に二首の歌をぞ書付けける。

*百年を四回までに過ぎ来しに愛宕の里の荒れや果てなん
*咲き出づる花の都を振り捨てて風ふく原の末ぞあやふき   べんべん♪

「新都」
 6月9日、新都の造営を始めます。
 徳大寺実定が担当者になったのですが、北に六甲の山が迫り、南は海までの傾斜地で、場所が足りないのでした。
 会議を重ねても妙案が浮かばず、人々はその身を、浮き雲のように思えるのでした。

 鴨長明はルポライターなので、福原も見に行って方丈記に
『なほむなしき地は多く、造れる屋はすくなし。
 古京はすでに荒れて、新都はいまだならっず。ありとしある人は、みな浮き雲の思ひをなせり。』
 と書いているのですね。

 この頃、西行は伊勢にいて、都のことを気にかけていたのでした。歌が残っています。
*雲の上や古き都になりにけりすむらむ月の影は かはらで
    (福原へ遷都ありと聞きしに、伊勢にて月のうたよみ侍りしに)
 
さて、ラジオ講座の平家物語は、うまくいかない福原土木工事の続きです。
 しかし、最近の調査では、当時の最新技術と資材と人手を使った、すごいものだったそうです。近隣の人たちは、今でも清盛を敬い、祀っているのですね。

「月見」
 大変だった夏も終わり、秋になったので、人々は名所の月を見ようと源氏物語の須磨や明石、和歌の浦、住吉、浪花などの月見をします。
 旧都に残る人たち伏見の月を見たりするのでした。

 中でも徳大寺実定は、旧都の月が恋しくて、8月には福原から都に帰ってしまいます。
 訪ねて行く近衛大宮には、異母姉の多子さまがおいでなのです。近衛帝の后であったのに、帝崩御のあと、二条帝に再入内を余儀なくされた悲劇のひと。(二代后)
 
 実定はそこで、待宵の小侍従に会います。
 この人は、源頼政との相愛の人なのです。頼政が以仁王の乱で亡くなったあと、出家していました。そして美しい声でうたいます。

 ♪旧き都を来てみれば 浅茅が原とぞ荒れにける
  月の光は隈なくて 秋風のみぞ身にはしむ♪

 夜明けとともに帰る実定を、人々は涙をこらえて見送ったのでした。

「物の怪」
 福原に移ってのち、平家の人々には、物の怪がひんぱんにあらわれるようになりました。
 清盛がていると、大きな人の面が現れた。
 ある朝は、坪庭に髑髏が沢山出て来てさわぎ、清盛がにらみつけると、瞬時に消え。

 また、名馬の尾に一夜のうちにネズミが巣を作って子を生んでしまう。

 また、源雅頼の所の青侍が、見た夢は 
「正装した貴人が会議をしており、そのうちに、末席の人が追い立てられます。青侍は夢の中で
「あれはどなたか」と隣の席の人に訪ねると「厳島の大明神」といいます。
 上座の老人が「平家の節刀は、伊豆の流人頼朝に与えることになろう」と言います。
 すると、その傍らの老人が「次には私の孫にも与えていただきたい」と言います。

 節刀を頼朝に、と言ったのは八幡大菩薩(源氏の守護神)
 次は我が孫に、と言ったのは春日大明神(藤原氏の氏神)
 臨席の老人は、武内の大明神、なのでした。
 
 この話が清盛に伝わり、源雅頼のところに青侍を出頭させよ、との命が出ると、その青侍は逃げてしまったということです。
 
 (杉本秀太郎さんの平家物語によれば、この場面で、平家物語の出来た年が、源実朝暗殺後に藤原氏の将軍(頼経?)の以後だったらしいと分かるらしい)

2012年9月16日
さて、今週のNHKラジオ古典講読の時間、五味文彦先生の平家物語は、東国の武士たちが立ち上がる頃の話です。
 始まった頃に人が来たので、よく聞けなかったので、杉本秀太郎さんの平家物語より。

「早馬」
 治承4年9月2日、大庭景親は、早馬で福原に頼朝の挙兵を伝えます。
 頼朝は石橋山に立てこもったのですが、この間のことは、平家物語には詳しくは書かれていないのだそうです。

 挙兵した頼朝は、景親の軍勢によって敗北、土肥に逃げこもり、そののち頼朝に味方した武士たちは海上を安房、上総に逃れたそうです。
 頼朝が外房の仁右衛門島に隠れ住んだのもこの頃かな?

「朝敵揃へ」
 宣旨を手に入れれば官軍となり、その相手は朝敵となるので、世をおさめようとする者達は、神武天皇の昔より、宣旨を手に入れることを大事とした。
 朝敵となったものは、はるか昔に土蜘蛛というものの例があり、その後平将門、藤原純友、悪左府、その例は20人以上にのぼるが、一人として本懐を遂げたものはなく、皆屍を山野に曝して果てたのです。

「咸陽宮」
 先例を秦の始皇帝に謀反をした、燕丹らのはかりごとが、失敗に終わった一部始終を書き連ねます。

「文覚の荒行」
 頼朝は、平治元年12月、父義朝の謀反によって殺されるところを、池禅尼の命乞いによって、14歳の永暦元年、伊豆の蛭が小島に流されて、20年余りの春秋を過ごしていました。
 その頼朝が謀反を起こそうとしたのは、高尾の文覚上人に進められたことによります。

 文覚というのは、もとは渡辺党の遠藤茂遠の子で、盛遠といい、19の年に出家して、荒行の修行に挑んだのです。
 
 杉本秀太郎さんは、文覚の話はあまり興が乗らない、と書いていらっしゃいますが、木下順二さんは平家物語で、文覚について、詳しく書かれています。
 
 それぞれの興趣って、おもしろいですね。

「伊豆院宣」
 文覚は、頼朝の所を訪れて
「平家には小松の大臣(重盛)という立派な方がおいでだったが、去年の8月に亡くなられてしまいました。
 平家の命運も尽きたと思われます。
 天下の将軍の相を持った人も見当たらず、是非とも謀反を起こして天下に号令をおかけください」
 と言います。

 そして、自分が平家討つべし、との院宣を貰ってくるといい、本当に福原に行き、後白河院から院宣をもらって、頼朝のもとに届けたのでした。

2012年10月1日
大掛かりな源平合戦の初めとなる「富士川」福原では朝廷行事がうまくできない「五節の沙汰」清盛がやっぱり京の都に帰ろうと決める「都還」でした。

「富士川」は、平家側から書かれているんですって!
 頼朝が体制を立て直しつつあることを聞いて、福原では勢いのつかないうちにと討つことに決めます。
 大将軍には維盛、副将軍には薩摩守忠度、知盛もいたけど、平家物語ではふれられていない、、、そうです。

 維盛は23歳。絵にも描けない、筆にも書き尽くせない美しさ。
 道中では、赤地の錦の直垂に萌葱匂の鎧を身に着け、葦毛に灰色の丸い斑紋のある馬=連銭葦毛=なる馬にに金覆輪の鞍をおいて乗り給へり。

 副将軍の忠度は
 紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧着て、黒き馬の太うたくましきに沃懸地=漆地に金粉を一面にふりかけたもの=鞍を置いて乗り給へり。

 馬鞍・鎧兜・弓矢・太刀・刀にいたるまで、光り輝く程に出立たれたれば、珍しかりし見物なり。

 昔は、朝敵を成敗しに行く将軍は、参内して敵を切る刀を賜るのだが、今回は清盛の祖父の正盛が出雲の国の朝敵を成敗の時に習って、鐸(すず)を送られます。

 都を発って、山を越え谷を超え、10月16日には、駿河の国に到着します。
 
 都を出た時には3万だったのが、官軍(平家)の軍勢は7万を超えています。
 維盛は、侍大将の忠清に、この勢いで足柄峠を越えて関東へ攻め込もうかと相談します。
 しかし忠清は福原を出る時に、戦については私に任されている。敵は10万の関東武士、こちらは寄せ集めの軍勢に過ぎないので、体制を整えるのを待つべき、と言います。

 石橋山で負けた頼朝ですが、
 9月19日、上総の介は頼朝に主としての器量がなければ殺そうとしますが、頼朝に会って、主と決め、
 頼朝は10月4日、武蔵の有力者たちを味方につけ、鎌倉入りをして、追討軍を迎えうつ準備をすすめています。

 ちょうどその時に、常陸の佐竹太郎が、京の女に文を出し、その使いが平家方に捕えられます。
 そして、その使いに源氏の勢力を聞いたところ、数が多くてよくは分からないが、昨日聞いたところでは25万騎という、、、などと言うので、
 忠清は「もう少し都を早く出ていたら、、」と嘆き

 維盛は東国の案内者の斎藤実盛に、東国の武士の勇敢さを聞いてショックを受けます。

 矢合わせの前夜、周辺の山や海辺には戦を逃れようとする住民のかがり火を、平家の人々は源氏の兵と間違えてふるえあがるのでした。
 矢合わせの前の晩に、住民のかがり火を源氏の兵と間違えた平家の軍たち。
 そして、水鳥の音に驚いて、戦をしないうちに総崩れとなって都に逃げ帰ったという大醜聞を後世に残したのですが、水鳥たちを驚かしたのは、宗盛の知行国を奪った甲斐の源氏たちが馳せ参じたためらしい。

 頼朝が敵方の動きを探らせたところ、平家は逃げてしまって、動きが全く見られない。
 これは、八幡大菩薩のはからいと喜び、駿河の国を一条忠頼、遠江の国を安田義定に与えました。
 それから先を追い打ちしようと思いましたが、駿河の国から鎌倉に帰ります。

 宿場の遊女たちは
「いくさには、見逃というあさましいものがあると言うが、平家の人々は聞き逃げしたのだと笑いましたとさ。

「五節の沙汰」
 11月8日、維盛は福原に帰ってきますが、忠清の所に泊まっています。
 東国の大敗に、清盛は怒って
「維盛を喜界が島に流せ、忠清を死罪にせよと言います。
 それに対して平家の侍たちが集まって会議をします。

 盛国が忠清はそんな男ではない、今度の不覚はただ事ではないと弁解したのでした。
 10日には維盛が昇進したので、人々は、今度の戦で何の手柄もあげていないのに、と不審がるのでした。
 11日には、清盛の4男の重衡が昇進します。

 13日には内裏が造られて、帝が御遷幸なさいますが、福原には大極殿がないので行事を行う場所もなく、神楽を奏する場所もないのでした。

「都遷」
 福原への遷都は君臣にも評判が悪く、比叡山からも奈良の寺からも元の都に戻してほしいとの要請があり、清盛もそれなら帰ろうと決意します。
 11月2日、俄に都還りを行います。
 福原は、北には山がそびえ、南は海に下っていて、波の音はいつも騒々しく、潮風も烈しい所なのでした。

 都還が決まると、人々は皆京に登ります。
 6月より建てられた家々も、打ち捨てて京に帰ったのでした。

 23日、近江源氏の討伐に、大将軍には知盛、忠度が3万余騎の軍勢で、近江の国へ出発し、源氏を攻め落とします。

 今週はここまででした。
 清盛が急に都還を決めたのは
○高倉上皇の病気の悪化
○山門の勢力が都還りをすれば平家に協力すると言った
○人心が福原から離れたという孤立感

 からだったようです。

2012年10月7日
「奈良炎上」

 清盛は着々と反撃を進めます。
 当時、比叡山の大衆は3つに分裂していたけど、その中の源氏系を12月11日に平定。

 南都の大衆は平家に攻められると戦々恐々の中、派遣した者たちが大衆の狼藉にあい、また球技の球を、清盛の頭として、打ったり踏みつけたりしました。
 
♪詞の漏らしやすきは、禍を招くなかだちなり。
 詞の慎まざるは、破れをとる道なりと言へり。
 かけまくも忝くこの入道相国は、当今の外祖にておはします。
 それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えし♪

 清盛は怒り、瀬尾太郎兼康を500騎で派遣。
 「大衆らは狼藉をしたとしても、お前たちは狼藉するな」と言い含めます。
 しかし、それを知らない大衆たちは兼康たちの60人余りの首をとって、猿沢池のふちに並べます。
 
 清盛は怒って重衡、通盛を大将軍に、南都攻めを決行します!
 南都の七千人余りが待ち構える中、平家は4万余騎を二手に分けて、奈良坂、般若寺2カ所を攻めます。
 南都の大衆は、歩立打物、官軍は馬で蹴散らしたのでひとたまりもありません。

 落ち行く中に坂四郎永覚という悪僧がいて、粉塵の働きをします。
 この「坂」というのは奈良阪、永覚は転害門?ということで、東大寺の僧らしい。

 夜になって暗いので、重衡は般若寺の門の前で火を放て、と命令します。
 12月28日夜の風は烈しく、強風にあおられて火は奈良中を焼き付くします。
 
 焔の中に焼けた人を数えれば
♪大仏殿の2階の上には1700余人、山階寺には800余人、或る御堂には500余人、或御堂には500余人、つぶさに記したれば3500余人なり、、♪

 明くる29日、重衡は南都を亡ぼして北京へ凱旋。
 中宮、一院、上皇は、たとえ悪僧をほろぼすためとはいえ、多くの伽藍を破滅すべきだったろうかと、御嘆きされたのでした。

 聖武天皇も、
「我が寺興福せば、天下も興福すべし。我が寺衰微せば、天下も衰微すべし」
 と記されてあるとおり、天下の衰微せん事、疑いなしとみえるのでした。

♪あさましかりつる年も暮れて、治承も五年になりにけり♪

 で、卷の6に入ります。

 南都の被害についてですが、直後に九条兼実のところに送られた被害状況の報告書によれば
「ことごとく焼失し、春日神社のみ被災をまぬがれる。
 悪徒30人が殺され、残りは春日山に逃げた」
 とあり、人的被害はそんなでもなかったようです。 
 あさましかりつる年も暮れて、治承も五年になりにけり。
 で、卷の六に入ります。
「新院崩御」
 新院とは、後白河と滋子の間の皇子、平徳子の夫の高倉上皇です。
 治承五年の一月は、南都の後始末から始まります。
 興福寺など南都の僧たちの職務停止、所領の没収などが決まります。
 
 興福寺の別当永縁が、大火のショックで亡くなったと、平家物語には書いてあるけれど、当時は別の人だったし、その僧も亡くなってはいないそうです。

 前年福原にいたころより、高倉上皇は病状が悪化しており、都還りして六波羅の池殿に入られたが、12月20日には起き上がれない状態で、1181年1月12日に危篤、14日に崩御されます。
 享年21歳。

♪内には十戒を保って慈悲を先とし、外には五常を乱らせ給はず。
 礼儀を正しうせさせおはします末代の賢王にておはしければ、世の惜しみ奉ること、月日の光を失へるが如し♪

「紅葉」
 高倉上皇のエピソード
 10歳の頃、紅葉を愛でて紅葉の木を植えてあかずながめておいでだった。
 ある日、風で紅葉の葉が落ちてしまい、それを殿守が集めて燃やして酒のかんをしてしまった。
 それを高倉天皇は「林間に酒をあたためて紅葉を焼く」という詩の心を誰が教えたのだろうと感心なさって、とがめ立てをしなかった。
 
 また、女の童がお使いで運んでいた衣装を取られてしまったのを知り、
 今の世の民は我が心をもって罪をおかす、政治の乱れは我が罪に他ならない、と涙を流され、女の童に盗られたのよりも美しい衣装を賜ったのでした。

「葵の前」
 高倉天皇は、中宮に仕える女房を愛してしまい、その周辺ではやがては後宮に迎えられるかもしれないと「葵の前」と呼ばれるようになった。
 それを聞いた高倉天皇は、葵の前を召さなくなった。
 葵の前は、里帰りしてすぐに亡くなってしまった。 

「小督」
 天皇は、涙にくれているので、なぐさめようと中宮が小督という女房を参らせた。
 この女房は桜町の中納言成範の娘で、信西の孫にあたり、宮廷第一の美人であり、琴の名手だった。
 そして冷泉の大納言隆房と恋仲だったが、帝に召されたので別れることになった。
  
 隆房は小督に会えずにもんもんの日々を送ります。

 隆房は清盛の娘を妻にしており、高倉帝の中宮も清盛の娘。
 清盛は2人の婿を取られたと、大いに怒り小督をなきものにしようとします。
 
 内裏を出て嵯峨の亀山に隠れ住み、姫を生む。
 そして清盛の怒りにふれて23歳で出家するのです。

 しかし、この話には無理があるそうです。
 いろいろな物語を集めたらしい。
 高倉院の死後、清盛は新たな軍政の構築をしていくらしい。

2012年10月15日
「廻文」
 高倉上皇が亡くなり、清盛は娘の徳子を後白河上皇の后にしようとしますが、徳子の拒否にあい断念。
 清盛は寵愛していた厳島女御との娘を献上します。この年、後白河上皇は55歳。

そして話は一転
♪さるほどに、そのころ信濃の国に、木曽の冠者義仲といふ源氏ありときこえけり。故六条判官為義が次男、帯刀の先生義賢が子なり♪父義賢は鎌倉の悪源太義平がために誅せらるる。そのとき義仲二歳なりしを、母泣く泣くかかへて信濃へ、、、、♪

 成長した義仲は、頼朝の挙兵を知り、一日も早く平家を追いおとそうと、信濃、上野の源氏一党に文を廻らせます。

「飛脚到来」
 木曽の謀反を知った平家方は動揺します。
 木曽を討つのはたやすいという清盛ですが、九州の平家方がみな背いたと飛脚到来。
 四国もみな源氏に同心したと、伊予より飛脚到来。
 
「入道死去」
 治承5年、2月が2回ある閏2月の4日に、清盛が熱病にかかり、亡くなります。発病は前の月の2月27日で、翌日にはすでに重態になっていました。
 妻の時子は重態の夫に、言い残すことはないかと聞きます。
「今生の望み、一事も残ることなし」
 が答えでした。
 清盛は愛宕の焼き場で煙となり、円実法眼という僧が遺骨を首にかけて摂津の国へ下り、経の島へおさめました。
♪屍はしばしやすらひて、浜の真砂にたはぶれつつ、むなしき土とぞなり給ふ♪
2012年10月21日
今週は清盛没後。

「経の島」
 清盛は生前、公卿たちを比叡山の日吉社にいざない、進行を深くした。
 ♪また何事よりも、福原の経の島築いて、今の世に至るまで、上下往来の船のわずらひなきこそ目出たけれ♪

 応保元年(1172年)2月に着工、8月の台風に堤が崩れ、工事は難航、翌々年の再工事には人柱を立てるという公家の詮議もあったが、清盛は「それは罪業」として石の面に一切経を書いて沈めて難工事を乗り切った。

「慈心坊」
 摂津の国、清澄寺の慈心坊が、仏前で閻魔大王に出会い、清盛は比叡山中興の祖、慈慧僧正の生まれ変わりであり、清盛が生きている時に行った善行も悪行も、両方とも世の中の人のための功徳になると説かれたらしい。

「祇園女御」
 最初に触れたので、今回は読まれなかったけど、
♪清盛公はただ人にはあらず。
 実には白河院の御子なり♪
 忠盛に下げ渡された経緯が

「洲の股合戦」
 清盛の発病と同じ日に発病した国綱卿も、20日に亡くなってしまわれた。
 国綱は藤原氏の長者として、清盛を援護し、多くの知行国を得て大福長者になっていました。
 基実が亡くなった折に、その領地をめぐり、摂関家領は基実の妻=清盛の娘=白河殿のものとするべきと、助言してくれた人です。

 22日、宗盛が後白河院のところに出向き、法性寺に院を移し、そこで再び院政を行ってほしいと願い出ます。
 後白河院は断っていたのですが、清盛なき今は万事院宣にて政治を行ってほしいと、無条件で実権を渡します。

 3月1日、南都の僧たちが復権し、末寺荘園も元のように復活されます。

 3月3日には大仏殿の再建が着工します。
 工事の奉行には行隆があたります。

 10日、美濃の国から早馬が来て、源氏の軍勢がすでに尾張まで攻め上って来ていると告げます。
 平家は大将軍に知盛、清経、有盛、忠房、侍大将に越中の盛綱、上総の忠光、悪七兵衛景清を擁して、3万余騎で源氏を迎えうちます。

 源氏は、行家と義経の同腹の兄義円を大将に6千余騎。
 16日に源氏が河を渡ってぬれたところを平家が矢を射て大勝利。
 行家は矢作まで退きますが、そこも平氏が打ち破ります。
 知盛は、それ以上深追いしないで引き返します。

 この後の文章で、東国では草も木も源氏になびくと書かれていますが、この戦で勝利した平家は、そののちもしばらくは力を持ちこたえる意味のある合戦だったらしい。

2012年10月28日
「横田河原の合戦」
 養和元年8月、神仏を最後の頼みとする平家の人たち。
 12月、中宮徳子は院号をさずかり、建礼門院となったが、幼い帝の母に院号とは前例のないことだった。
 養和2年、2月「太白(金星)昴(すばる)星を犯す」不吉の兆し。

 4月、法王が日吉社に行幸するのを、これは山門の大衆に平家追討を命ぜられるのではと、平家一門はあわてふためき、重衡は3千余騎を引き連れて坂本まで法王をお迎えに行ったりして、デマだったのに、事を大きくしてしまう。

 養和2年5月、また年号が変わって寿永となります。

 寿永元年9月、木曽義仲追討のために千曲川の横田河原で合戦するも、白旗赤旗のトリックがあって平家は木曽に完敗します。

 平家はこの大敗を気にも止めず、10月には宗盛が内大臣になり、その祝賀行事に忙しくしています。
 寿永2年の年賀の行事は、宗盛が取り仕切って、滞りなく行われました。
 巻6の最後は
♪南都北嶺の大衆、熊野、金峯山の僧徒、伊勢大神宮の祭主、神官に至るまで、一向平家を背いて、源氏に心を通はしけり♪

巻7は
「北国下向」
 書き出しは
♪寿永2年3月上旬に、木曽の冠者義仲、兵衛の佐頼朝、不快の事ありと聞こえけり♪

 頼朝は、義仲の勝ち戦が気に入りません。
 義仲は、乳母子の今井四郎兼平を使者に立てます。
 
「親たちの時代にはいろいろあったが、今はともに平家を倒すため都に攻め上ろうとする身。義仲はあなたさまにやましい心はありません」
 頼朝は答えます。
「いまになってそんなことを言っても、頼朝に対しての謀反の企てがあると知らせたものがある」

 義仲は、11歳の嫡男清水冠者義重を人質に差し出して、意趣のない証にします。
 頼朝は、自分にはまだ成人した子がいなからと、清水冠者を鎌倉へ連れて帰ります。

 頼朝と和解した義仲は、兵をそろえ、都へ乱入するいきおいです。
 都では、平家の人々が、まず義仲を討ってのち、頼朝を討とうと詮議をし、まずは北国へと討ってを派遣します。

 4月17日、
 大将軍には小松の惟盛、越前の通盛、副将軍には忠度、経正など、大将軍6人、侍340余人、その勢10万余騎で都をたちます。2年の飢饉のあとで、兵はゆく先々で兵糧を奪い取り、北国をめざしたので、
♪人民こらへずして、山野に皆逃散す♪

「竹生島詣」
 惟盛、通盛たちは先へ行ったが、忠度、経正、清房、知度たちは、近江の国に控えていました。

 その中でも、経正は、幼少の頃から詩歌管弦の道に長じていました。
 経正は、このような戦乱の中でも心を澄まし、朝夕湖のほとりで眺めていましたが、小船に乗って蓬莱島のような竹生島に渡り、島に祭られている神の前で琵琶を奏で、その祝福を得るのでした。

 平家と義仲の戦乱が始まる前の優美な段なのでした。

 文化人経正の様子は、建礼門院右京太夫集に
「惟盛が笛を吹き、経正が琵琶を弾く」
 という記述があるそうです。

2012年11月4日
「火燧ち合戦」

 ♪さるほどに、木曽義仲は、自らは信濃にありながら、越前の国火燧が城をぞ構へける♪
 その場所は、四方に峰、前に川が流れて屈強の城郭であり、そこに北陸の武士たちが守りを固めています。

 なぜ信濃の義仲が彼らを味方につけることができたかといえば、知行地を次々と彼らに下したから。
 その1例が「徳田?文書」というのに残っているそうです。

 義仲は、本格的な合戦の前、飢饉のさなかにすでに武士たちの所領を保障して味方につける工作をしていたらしい。

 火燧ケ城には平家の味方の明威儀師という人がいて、城の前の川はせき止めてあるので渡れないが、堤を決壊させれば水は流れてしまう、という矢文を平家方に射こみます。

 それによって、平家は水を落として大軍が城に入り勝利して加賀の国へ進軍します。
 5月8日、平家は加賀の篠原について、10万の軍を二手に分けます。
 9日には加賀から越中まで攻め込みます。

「木曽の願書」
 木曽義仲は
♪平家は大勢であんなれば、いくさは定めてかけあひのいくさにてぞあらんずらん♪

 正面から戦っては勝ち目がないので、白旗を立てて大軍に見せかけよう。
 案の定、平家は旗に驚き、義仲の思うように動きます。

 山中で片そぎ作りの八幡大菩薩の社に出会った義仲は、戦勝を願って右筆の覚明に願書を書くことを相談します。

 覚明とは、もと信救といい、以仁王の乱の折の牒状に興福寺からの返牒を書いた人。
 その中に
「清盛は平氏の糟糠、武士の塵芥」と書いたため清盛の怒りにふれ、死罪を言い渡されたので、北国に落ちて義仲の右筆となり、覚明と名乗っていたのです。

 覚明は国のため、君のため、我等に加護をしてほしい。八幡太郎義家を曽祖父に持つ義仲に、もし八幡大菩薩の加護があるならば、瑞相を見せたまえ、寿永2年5月11日、源義仲敬白、と書き終えます。

 すると
♪雲の中より白鳩3つ飛び来たって、源氏の白旗の上に翩翻す♪

 その昔、神功皇后、新羅を攻め給ひしとき、味方の軍弱くして、異国の軍強くして、、、、の時に、皇后が天に祈ると雲の中より鳩が帰来し勝利したことなど思い、心強く、義仲は急ぎ馬より降り、甲を脱ぎ、手水うがいをして、この霊鳩を拝んだのでした。

「倶利伽羅落し」
 一進一退の戦いが続き、源氏は夜を待ちます。
 しかし、平氏はその策略を見抜けません。
 
 倶利伽羅峠での源氏の奇襲にあい、平家の大軍は
♪親落とせば子も落とし、兄が落とせば弟も落とし、主落とせば家の子郎党も続きけり。
 馬には人、人には馬、落ち重なり落ち重なり、さばかり深き谷一つを、平家の勢7万余騎で埋めたりける。
 岩泉血を流し、屍骸岡をなせり♪

 7万余騎のうち、2千ほどが逃れることができました。大将軍惟盛、通盛は命からがら加賀の国へ退きます。

 折りしも、平泉の藤原秀衡から馬が2頭送られてきたので、義仲はそれを白山の神馬として奉納します。
 義仲は、諸社へ領地を寄進します。

 



 

 



 


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